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小説を書こう。「中村航の話」④

こんにちは。

ステキコンテンツ古川です。

「中村航の話」の第4回・社会人編を書こうと思うのですが、当時の記憶が断片的というか、思い出の時系列がごちゃごちゃで、うまく書けるかどうか・・・。

とは言いつつあの頃の、「突き抜けたい」という崖っぷちに立っている感覚。

あの落ち着かない、ゾワっとした感覚だけは、今もはっきり覚えているんですよね。。。

まず僕の話を済ませます。

僕は芝浦を3年に上がる前に中退し、コピーライターの専門学校(1年制)に入学しました。

僕が将来なりたいのは、エンジニアでもないし建築家でもなかった。

それが大学に入ってから明確にわかった。

そんな中途半端な気持ちで大学に居続けることが自分の中で許せなくなり、親と相談して中退を決めました。ホント、ゴメンナサイ。

サークルを抜けることが若干心残りではありましたが、バンド「新生命」は大学を辞めても継続できるので問題ありませんでした。

専門学校は夜間のコースなので、昼は働かねばいうことで、B-ingやとらばーゆを買ってきて仕事を探し、縁あって「M」という制作プロダクションに契約社員として拾っていただきました。

昼はそこで求人広告の制作スタッフとして実務を経験し、夜は専門学校でコピーライターの専門的な授業を受けるという濃い毎日を、結構真面目に1年継続しました。

(その頃学校で出会った福島君。本当に感謝しています。)

専門学校卒業後はM社の正社員に登用してもらい、求人広告の仕事をさらに広げていく感じで、会社案内や入社案内、ダイレクトメールの制作にも携わるようになりました。

今現在の僕がやっている仕事と何ら変わりなく、その頃に培った礎が、間違いなく今の僕の力になっています。

このように、僕はいつのまにか「コピーライター」という肩書の名刺を持って、経験は浅いながらもプロとして働くようになっていました。

でも。。。

自分から望んで掴んだ生活なのに、これが3~4年続くと、飽き性な僕はまたもやよからぬ焦燥に駆られるのでした。

「バンドはどうなった」と。。。

クリエイターの仕事は一般的なイメージ通り、多忙を極めました。

オンとオフの境目はなく、終電帰りやタクシー帰りは日常茶飯事で、仮眠をとって始発で会社にトンボ返りということも珍しくありません。

土日祝日という概念は希薄で、会社で競馬中継を聞きながら原稿を書くというのが僕の日曜日のルーティーンでした。

いつの間にかバンドや音楽に割く時間は削られていて、メンバーとも距離ができ、情熱も奪われていきました。

でも「突き抜けたい」という思いだけは頭の片隅に残っていたのでしょう。

そこで僕がくだした決断は「会社を辞めて、新しいバンドを始める」でした。

今思うと、大学を辞めてコピーライターになり、会社を辞めるまでの数年間、僕は中村航とほとんど会っていなかったと思います。

僕らが再びつるむようになったのは、僕が会社を辞め、新バンド「ラウンドハウスキック」の活動と、深夜の半導体工場バイトをしながら西川口に住んでいたときです。

あと、彼が大宮方面に住んでいて、僕の家までアクセスが良かったというのもあります。

当時は携帯電話もメールもなかったので、ツレが連絡もなくいきなり家にやってくることも多々ありました。

中村航は会社勤めをしていたので、家にやってくるのはたいてい土日、はたまた金曜深夜で、週末は僕の新バンドのメンバーが溜まっていることも多く、そんなときはみんなでバーチャファイター大会で盛り上がりました。

コントローラーを握っていないときはアコギを弾いたり、週プロを読んだり、下世話な話で盛り上がったりと、まさに大学時代の再来でした。

ただ、中村航は音楽の創作活動は続けているようでしたが、表立って音楽をしているわけではなく、趣味の延長のような感じでした。

そして、話を聞く限り、会社勤めは決して向いているようには思えませんでした。。。

いつ、どのタイミングで言ったのかはわかりませんが、才能をもてあそんでいる彼に僕は言いました。

「小説を書いてみたらどうだ」と。

(続く)

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